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石田三成ってどんな人?関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れた西軍大将

石田三成
あまね

石田三成という戦国武将の名前を聞いて思い浮かべる事はなんでしょうか?

現在放送中の大河ドラマ「どうする?家康」でも描かれている通り、天下分け目の関ケ原の戦いで、西軍の総大将を務めた武将というイメージが強いと思います。

そんな石田三成、江戸幕府を開き安寧の世を築いた徳川家康と真っ向から対立していたため、江戸時代以降の伝承では、悪役として描かれることが多いです…。
正当な評価を受けられなかった不遇な武将ともいえます。

そんな不遇な戦国武将、石田三成の生涯を見ていきたいと思います。

あなたの石田三成に対する評価と現実は違うかもしれません。

目次

石田三成の生涯

石田三成像
石田三成像

生まれ

石田三成は、1560年(永禄3年)頃、近江坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市付近)で、村の有力者である石田藤左衛門正継の三男(長男が早世していたため実質は次男)として生まれました。

幼名は佐吉。
幼い頃から聡明だと言われていた石田三成は、長男ではないため親の後を継ぐことはなく、寺に小姓として預けられていました。

石田三成と秀吉の出会い

秀吉公 石田三成公 出逢いの像
秀吉公 石田三成公 出逢いの像

石田三成が寺の小姓として仕えているときの有名なエピソードがあります。

秀吉が鷹狩りの帰りに休憩のために寄った寺で、小姓(三成)に出してもらった3杯の茶
  • 1杯目は大きい茶碗にぬるいお茶
  • 2杯目は1杯目より少し小さめの茶碗にやや熱めののお茶
  • 3杯目は小さい茶碗に熱いお茶

1杯目は喉の渇きを潤すために飲みやすく量が多い茶を、2杯目は喉を落ち着かせるために量も熱さもほどほどの茶を、3杯目は、茶の本来の味を楽しんでもらうための熱い茶を出した意図がありました。

その意図を理解した豊臣秀吉は、利発で聡明な石田三成に感服し、家臣として召し抱えました。

このエピソードは江戸時代に書かれたもの。
その頃には父である石田正継、兄である石田正澄と共にすでに小姓として仕えていたのではないかという説もあり、創作の可能性も高いです。

寺で小姓をしていた時期があることは間違いないですが、豊臣秀吉が長浜城主となった時期に家族で仕え始めたというのが有力な説となっています。

豊臣秀吉に仕えてからの実績

秀吉と三成。喜多川歌麿の浮世絵
秀吉と三成。喜多川歌麿の浮世絵

豊臣秀吉の小姓として仕え、子供ができなかった豊臣秀吉夫妻に実の子供のように育てられてきた石田三成。

本能寺の変

彼が群雄割拠の戦国時代に名前が出てくるようになったのは、1582年(天正10年)に起きた本能寺の変の後からです。

主君・織田信長の敵である明智光秀を討つために行った中国大返しの際には、食料の確保や進む道を切り開いたりする手伝いをしました。

賤ケ岳戦い

大一大万大吉。石田氏の家紋
大一大万大吉。石田氏の家紋

明智光秀討伐後は、豊臣秀吉が天下人への基盤を固めることに協力。

今後の織田家の命運を左右する柴田勝家との賤ケ岳戦いでは、偵察部隊として活躍し、佐々成政の奇襲作戦に見事応戦し、戦局を決める一手となりました。

豊臣秀吉子飼いの武将と共に先駆け舞台としても活躍し、一番槍の武功を挙げるなど活躍し名前が知られるようになりました。

この賤ヶ岳の戦いの勝利により、織田家において実質NO.1の実権を握った豊臣秀吉は天下人の道を進んでいくようになったのです。

秀吉の関白就任後は、奉公役として、堺奉公や博多奉公を歴任

石田三成は戦での働きより政務や実務を行うことが多く、真面目で堅い人柄だったという印象通り、豊臣秀吉に命ぜられたことを忠実に執行してくことから豊臣秀吉からの信頼も厚いものがありました。

柔軟な考え方が苦手だったと言われる三成。
検地などの決められたことをする分には力を発揮し、その能力をいかんなく発揮できました。

ですが戦況が刻一刻と変わる戦場に関しては賤ヶ岳の戦い以降は目立った活躍はできませんでした。

忍城
忍城

天下統一目前となった北条氏との小田原の戦いでは、小田原城の支城の1つである忍城攻略を任されましたが、戦況と天気がつかめず攻略に手間取り、小田原城が落ちた後でも落とすことが出来ませんでした。

この忍城での戦いは、映画「のぼうの城」の題材にされるなど、完全勝利だった豊臣軍の中において唯一苦戦した戦いとなってしまいました。

その後、奥州仕置のときには検地などを行う実行役として従軍。
また朝鮮出兵では、豊臣秀吉と現地で奮戦する武将たちの橋渡しとなりましたが、豊臣秀吉の命令に従順すぎたために現地で戦う武将たちとの関係が徐々に悪化していきました。

秀吉死後の豊臣家中の分断

1598年(慶長3年)、天下人である豊臣秀吉が亡くなります。

息子である豊臣秀頼が後を継ぎますが、まだ幼く、徳川家康などの五大老と石田三成等の五奉行が中心となり、幼い豊臣秀頼を支えて政治を行っていくこととなりました。

あまね

そういった中で豊臣秀吉子飼いの武将たちは対立を深めていきます。

石田三成を中心とした文治派と加藤清正、福島正則を中心とした武断派に別れ、朝鮮出兵からの対立がさらに深まっていきます。

この対立については、五大老筆頭であった前田利家が上手く間に入り表立った争いは抑えられていましたが、1599年(慶長4年)に利家が亡くなると、加藤清正を中心とした武断派が石田三成の屋敷を襲撃するという争いにまで発展。
この事件がきっかけで関ヶ原の戦いへと進んでいくことになりました。

このときに石田三成を匿い仲裁をしたのが、後の東軍総大将の徳川家康でした。

このような小さなひずみが大きくなっていき、豊臣政権が徳川家康に乗っ取られることを危惧した石田三成は、徳川家康がいつ裏切っても問題ないように準備を進めていくこととなります。

石田三成、関ヶ原の戦いで敗れる

石田三成陣所

1600年(慶長5年)6月16日、徳川家康は、会津へと出兵を決め会津征伐へと乗り出します。

豊臣政権下では、私利私欲で土地に攻め込んではいけないという決まりごとがありました。
それを破ろうとしている徳川家康を許せなかった石田三成は豊臣秀頼の名のもとに毛利輝元を総大将として、現場での総大将は石田三成が行い、関ヶ原の戦いへと進んでいきます。

石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍に別れた天下分け目の関ケ原の戦いは、序盤西軍有利で戦が進んでいました。

ですが、西軍に属していた小早川秀秋や吉川元春等の裏切りにあい、西軍は一気に崩壊し、徳川家康率いる東軍の勝利に終わり、幕を閉じました。

石田三成の最期

関ケ原の戦いに敗れた石田三成は、戦場から何とか逃げ出し、隠れながら再起することを考えていました。

ですが、1600年(慶長5年)9月21日に捕縛隊に見つかり捕縛されます。

その後、徳川家康の命により1600年(慶長5年)10月1日に京都市内を引き回しにされた後、六条河原にて斬首され、しばらくの間さらし首にされるという最期を迎えました(享年41)。

このような結末を迎え、江戸時代には、どうしても江戸幕府を開いた徳川家康の敵役として記録されたことが多い石田三成。

あまね

彼自身は、主君に忠実で命令をきっちりとこなし、主君が死後も主君の政治を守ろうとしていただけの忠義があり、現代の会社員に近いような考えを持った人な気がします。

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