“福沢諭吉”と聞いてあなたは何を思い浮かべますか?
私は2つのことを思い浮かべました。
その2つのことが本記事で福沢諭吉について書こうと思った理由です。
福沢諭吉は慶應義塾大学の創始者
1つ目は私が憧れていた大学の創設者であるということ。
そう。慶應義塾大学ですね。
残念ながら、私はそこへの入学の夢は叶いませんでしたが、その過程において福沢諭吉について調べて、とても愛着がある偉人となりました。
福沢諭吉は”学問のすすめ”の著者
2つ目は”学問のすすめ”です。
有名な一節で、“点は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず”という言葉がありますが、この本について知っているようで何も知らないというのが現状でした。
そんな福沢諭吉関して本記事で詳しく書いていこうと思います。
福沢諭吉の生涯
生まれ
豊前中津藩の下級武士の子供として生まれた福沢諭吉。
父の他界により貧しい生活を強いられることとなりますが、転機が訪れたのは長崎を出てから。
蘭学と砲術を学ぶ
19歳で長崎を出て当時の最先端の学問であった蘭学と砲術を学びました。
その後蘭学者の緒方洪庵が設立した適塾にて蘭学を学び、日々の弛まぬ努力の末、学長にまで上り詰めました。
渡米
そして時は流れ、福沢諭吉が25歳になるとアメリカへの使節団に志願して、渡米することとなります。
そのときに乗っていた船こそ、あの有名な咸臨丸なのです。
そこで福沢が見たものは想像を遥かに超えるものでした。
当時の日本と比べて、国力が上であったアメリカの生活はまさに驚きそのものでした。
着ているものから食べるものまで全て日本と異なり、この渡航で福沢は世界の最先端を学びました。
そのことについて福沢の自伝である”福翁自伝”に詳しく記載されています。
その後も使節団として度々アメリカを訪れ、そのことを”西洋事情”にまとめ、当時の日本で大ヒットを記録しました。
慶応義塾の創設
そして、1868年。
現代にまで名を残すあの学校が設立されます。
そう、慶應義塾です。
当時は大学という形式自体がなく、もともとあった蘭学塾を現在の港区に移し、開校しました。
この慶應義塾ですが、ある方式が日本初だったと言われています。
それは月謝制です。
この慶應義塾では月々のお金を授業料として塾生に払ってもらい、教室の運営などにあててたといいます。
福沢諭吉の”学問のすすめ”は異例の300万部ベストセラー
さてここからは”学問のすすめ”についてのお話。
この学問のすすめは1872年から刊行が始まりました。
この時代では異例の300万部を超えるベストセラーとなりました。
少し前までは国民全体の識字率はそれほど高くありませんでした。
この学問のすすめがこれほどまでに売れたのは国民の識字率が向上したことも一つの要因なのかもしれませんね。
“学問のすすめ”の名言を解説!
さて、この学問のすすめで皆さんが知っているのはやはり、“天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず”と言った言葉でしょうか。
つまり、生まれながらに皆平等ということです。
この頃から、現代の基本的人権のような考え方を持っていたのですね。
福沢は、生まれながらにして皆平等なのにさまざまなところで差が出るのは学問の差だと学問のすすめでまとめていました。
皆さんが想像する学問のすすめはみんな平等、というところまでだと思います。
しかしその続きには勉強によって上下が生まれるということまで書いてあるのです。
確かに名前が”学問のすすめ”なんですから当然と言えば当然ですが。
慶應義塾ならではの慣習
ところでこの慶應義塾が元となって設立されたのが、ご存じ私学の最高峰、慶應義塾大学ですが、慶應ならではの慣習もあるそうです。
もともと慶應義塾を作ったのは福沢諭吉です。
なので、慶應義塾の先生といえば福沢諭吉しかありえないのです。
ですから例えば慶應義塾大学の教授は一般的な先生という呼称は用いられず、○○君と呼ばれるそうです。
他の大学とは少し違った慣習ですよね。
まとめ
いかがだったでしょうか。
明治時代に学問という観点から国を支え、現代にまで学びの礎を築き上げた福沢諭吉。
あなたの学びの助けになったのであれば幸いです。
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