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平賀源内って何をした人?土用の丑の日の多才なコピーライター

平賀源内

日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも呼ばれる平賀源内。
多彩な才能と優れた頭脳で数々の偉業を成し遂げた人物です。

目次

平賀源内の生涯

平賀源内電気実験の地

生まれ

平賀源内が生まれたのは1728年。
現在の香川県に生まれました。
八代将軍、徳川吉宗が活躍した時代です。

幼名は四方吉嘉次郎、父親はこの地を治める高松藩の御米蔵番の武士でした。
下級武士だったため待遇はあまり良くなく、棒給は少なく生計を立てられない。
そのため農業をしながら何とか暮らし、家計を守っていたようです。

兄や妹などたくさんの兄弟もいましたが、次々と亡くなってしまいます。
残されたのは源内と、15歳年の離れた妹だけでした。

幼少期を過ごしたのは十代将軍、徳川家治の時代。
田沼意次が老中として経済対策を行っていたときです。

平賀源内が天才と言われるまで

平賀源内

12歳になると天狗が描かれた掛け軸にお酒をお供えすると頬が赤くなる仕掛けを作り、話題を呼びます。

13歳頃には本格的に儒学や本草学を学びます。
父親の死をきっかけに家を継ぎ、藩の許可を得て長崎に留学することになります。

本来の目的は本草学を学ぶためでしたが色々な文化や学問が入ってくる長崎で、オランダ語や医学、油絵まで学びました。
西洋文化が飛び交う長崎に刺激を受け、後の源内の活躍の礎となります。

長崎から帰ったのは1754年。
源内は家督を妹に譲ってしまい、脱藩をして江戸へ向かうのです。

本草学者である田村藍水に弟子入りし、本草学の博覧会などを開催します。
当時ではかなり画期的な試みで、普段見られないものを見ることが出来る展示会として人気を博しました。
イラスト付きの図鑑なども発行し、話題を呼びます。

江戸に渡ってからも素晴らしい才能を発揮した源内は、江戸幕府一のやり手だった田沼意次にまで知られるようになります。

平賀源内と田沼意次の関係は?

田沼意次
田沼意次

田沼意次は源内の類まれなる才能に目をつけ、幕政を支えて貰うことにしたのです。
幕政を安定させるためには商業に力を入れ、蘭学も活用しながら発展させなければと考えていました。

輸入品などを国産化させ、商業を発展させて経済の安定を図ったのです。
源内もこれらの政策を支持し、影ながら支援します。

1764年には秩父で現在のアスベストを発見し、これを利用して耐火織物を作成します。
幕府に献上し、評価を得たのです。

それからも言うものの田沼意次の命で長崎に行ったり、鉱山開発にも着手したりします。
田沼意次の考える経済対策、国益を一番に考え行動したのです。

杉田玄白も惚れこんだ平賀源内の才能

杉田玄白
杉田玄白

平賀源内の生涯を語る上で欠かせない人物は田沼意次以外にもう一人、同じ蘭学を学んだ杉田玄白です。
源内の親友とも知られ、毎年オランダ商館長を訪ねたり、一緒にオランダ語訳の西洋博物書を手に入れたりしていました。

杉田玄白も源内の才能に惚れ込んだ人物の一人で、著書には「天性の才人」と書いています。

あまね

発明家や医者など様々な肩書きを持つ源内ですが、その中でも異色の肩書きがあるのを知っていますか?

「コピーライター」平賀源内

それは「コピーライター」です。
今では聞き馴染みのある職業の一つで、さまざまな人がコピーライターとして活躍しています。
そんなコピーライターの先駆けとなったのは、平賀源内なのです。

本日は土用丑の、鰻食うべし

平賀源内と鰻

源内が作ったキャッチコピーで有名なのが「土用丑の日」。
鰻を丑の日に食べようという現在でも親しまれているコピーです。

江戸前の鰻をこよなく愛してた源内。
鰻がない人生など意味がないも言っていたほどです。

鰻屋が源内のもとに商売を繁盛させるにはどうしたら良いかと相談したところ、「本日は土用丑の、鰻食うべし」とキャッチコピーを考えました。

このキャッチコピーを店先に出してみたところ、店は大繁盛。
次々と他の鰻屋が真似をしだしたという逸話があります。
本人からすれば面白半分でひねり出したコピーが、こんなにも大勢の人たちの心を掴んで驚いたかもしれませんね。

平賀源内の最期

そんな華やかな人生を送ってきた平賀源内ですが、最期は悲しい結末を迎えています。

1779年に源内は大名のお屋敷の修理を頼まれます。
ある日酔っ払っていたときに大工たちが設計図を盗んだと思い込み、2人の大工を殺してしまうのです。

殺人をしてしまってから少し経ったころに自ら奉行所に出頭します。
江戸では知らない人は居ないと言われるほどの人物であった源内が事件を起こしたと発覚し、江戸は騒然となります。

なぜ2人の大工を殺してしまったのかハッキリとは分かっていませんが、自分の才能を理解してくれない、時代の先を行き過ぎた商売が成功しなかったなど様々鬱憤が源内の中に溜まっていたことで起こした事件と考えられています。

あまね

才能があり過ぎるあまり、実は深い悩みは悲しみを抱えていたのかもしれません…。

大きな事件は起こしてしまいましたが、平賀源内の素晴らしい功績の数々は今でも語り継がれています。

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