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異端の天才・大村益次郎(村田蔵六)は何した人?

大村益次郎
目次

大村益次郎は何した人?経歴年表

大村益次郎

1824 周防国・鋳銭司(すぜんじ)村 村医者・村田家の長男として誕生。幼 
     名・宗太郎。その後、蔵六、良庵を名乗る。
1842 防府・蘭方医梅田幽斎(蘭学医学)に入門。
1843 備後国・広瀬淡窓 咸宜園(四書五経、数学、天文学、医学な 
      ど広く講義)に入塾。「農兵採用論」に出会う。
1846 大坂・緒方洪庵 適塾入塾。学業最優秀、塾頭を務める。
1850 帰郷、村医開業。
1853 宇和島藩お雇い。日本初の蒸気船建造。
1856 宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)参勤に随行。
     江戸で鳩居堂(蘭学・兵学・医学)開塾。
1857 幕府・講武所(剣術・洋式教練。砲術など) 教授就任。
1860 長州藩士になる。
1863 帰国、長州藩 博習堂(西洋兵学) 教授就任。
1865 大村益次郎に改名。藩軍制改革整備を担当。
1866 第二次長州征伐。石州口戦で長州軍指揮、幕軍に勝利。
1868 軍務官判事・江戸府判事に就任、有栖川宮東征大総督府を補佐し、戊辰 
     戦争を指揮。
1869 明治新政府 兵部省兵部大輔(副長官)就任、軍政担当。
     京都で刺客に襲われ重傷の後、敗血症により死去。

武士ではない一般庶民

靖国神社の石鳥居
靖国神社の石鳥居
靖国神社にある大村益次郎像
靖国神社にある大村益次郎像

村田蔵六(大村益次郎)は村医者

現代では医者は社会的地位が高い。
しかし当時、軒先に看板を掲げれば誰でも医者になれ、評判次第で藩医などに出世できたが、基本身分としては下層の職業だった。

蘭学の知識で武士に

益次郎は流行らない一介の村医者だったが、ずば抜けて優秀な才能を有し、特に蘭学の知識によって出世していく。

本邦随一と評判の緒方洪庵・適塾でその才を認められ、名君の誉れ高い宇和島藩・伊達宗城の下で日本初の国産蒸気船建造に成功。
蘭学関係の幕府の役所担当に抜擢され、その後その才能に魅せられた長州・桂小五郎により長州藩士に取り立てられた。
益次郎はこれで初めて武士となる。

当時、黒船来航から始まる外国対応のため、幕府も各藩も欧米研究が喫緊の課題であった。

それまでの鎖国政策でオランダのみが唯一の欧米国だった日本では、オランダ、つまり蘭学を通してしか欧米研究ができなかった。
そのため蘭学需要が急増し、蘭学で衆に抜きん出た益次郎が引っ張りだことなったのである。

大村益次郎の功績

あまね

益次郎の特徴は、蘭学の知識を知識だけに終わらせず実際の活動に完全に活かしたこと。

武士に限らない農商などの層中心の西洋式兵制を採用し、士官養成や兵教練を積極的に推進した。
その結果が、第二次長州征伐における益次郎指揮の長州軍の圧勝である。

以後、官軍の中心人物として戊辰戦争を指導して軍指揮の才能を遺憾なく発揮した。

維新後、明治新政府では軍事関係を所轄する部署の実質のトップとして、
新国家の国軍整備に邁進しようとした矢先、批判勢力の狂刀によって落命した。

発達障害だった?

あまね

大村益次郎は相当な変人だったと伝わっています。

変人エピソード1

「お暑うございます」というに挨拶に、
冗談ではなくクソ真面目に「夏は暑いものです」と返すような人だったとい

変人エピソード2

また村医者だった蔵六は、父親の代からの古い患者に対し、父親がいつも渡していた薬を「薬は不要です」と無下に断った。
患者との世間話やねぎらいの言葉など無駄といわんばかりの応対で、そのあまりの不愛想さに村医者としては流行らなかった。

変人エピソード3

それは目上の者に対しても同様だった。
宇和島藩で蔵六が造った日本初の蒸気船が見事進んだのを見た藩家老の一人が、
「村田、進んでいるではないか!」と興奮して言ったとき、
彼は「進むのは当たり前です」と何事もなかったかのように答えたという。
全く可愛げがないのである。

変人エピソード4

適塾時代には、他の塾生たちと酒を酌み交わすことなど時間の無駄と断じ、常に豆腐を当てに一人手酌しながら勉強していた。

変人エピソード5

さらには官軍の江戸無血進駐後の軍議の席上、東征軍高官を指差し「彼らは戦さを知らぬ」と面罵したこともある。
これは命より名誉を重んじる武士にとって最大級の侮辱で、村田蔵六改め大村益次郎が武士ではなかった点を考慮してもあり得ない言動なのだ。

その他にも変人、何を考えているか分からい人などの評判が散見され、事ほど左様に彼は空気の読めない男だったのである。

大村益次郎の多彩な天才ぶり

一方、緒方洪庵の適塾で洪庵代行教師役の塾頭を務め、経験もなくその専門家でもないのに蘭語の文献による独学だけで、蒸気船建造、洋式軍隊の創設から戦闘指揮まで果たしてしまう益次郎の能力は、まさに天才と呼ぶに相応しいものである。

大村益次郎の豆腐好きエピソード

豆腐

その天才ぶりの原点を推し測る逸話が伝わっている。
彼の豆腐好きは有名で、幕府蕃書調所時代の小遣い帳に豆腐の記載が多数あり、彼の周囲の人の回顧談に豆腐好きの話が多く残る。
ある一点に並外れて深く傾倒する益次郎の気質をここに見ることができる。

それは言い換えれば異常なほどの集中力である。
この集中力が記憶力や想像力を触発し、蘭学文献からの膨大な知識を実体験のように想像することができ、実地の行動に活かされたのではないだろうか。

他方で、自分が興味のあるもの以外には関心が極端に薄く、他人の気持ちなどには無頓着で周囲との関係は孤立や軋轢が顕著だった。

現代の医学ではこれに酷似した事例が報告されている。
発達障害である。
幾人かの専門家々が益次郎の気質に発達障害の特性を見出している。

西南戦争を予見?実は最大の功労者。

西南戦争
西南戦争

明治新政府で益次郎は軍事事項を管轄する兵部省の大輔(次官)に任ぜられたが、卿(長官)は皇族なので益次郎が実質の長であった。

新国家の国軍創りに取り組んだ益次郎は大阪をその中心地と成すべく活動し始めた。
ところが、そのための京阪地方視察途中に益次郎は刺客に襲われ、その後の経過が悪く病没する。

しかし彼の遺志は受け継がれ、

  • 兵部省役庁
  • 海陸兵学寮
  • 海陸軍練兵所
  • 陸軍屯所
  • 砲銃火薬製造局
  • 軍医局

を大阪城内外に、また火薬製造所を山城国宇治に造営することが、益次郎の死後1869年(明治2年)兵部省から上申された。

特記すべきは、1945年(昭和20年)まで大砲など大型兵器製造の拠点となった大阪砲兵工廠の前身、大阪造兵司が翌年に設立されたことである。
造兵司は年々設備が拡充整備されて主に大砲の製造を担った。

1877年(明治10年)、西南戦争が勃発する。
征韓論に関する対立から政府を下野した西郷隆盛を首領とした薩摩藩士の反乱である。

大砲と砲弾のみならず、特に小銃とその弾丸の需要が急増した。
大砲製造が主であった大阪の工廠でも急遽そのための工作機械を設置し、フル稼働したがそれでも足らず、東京の本廠製造品も大阪を中継して送り出された。

精強で名高い薩摩軍に政府軍は何とか勝利したが、その要因の一つは戦場に投入された弾薬の量の差だったと謂れている。

各軍事施設の大阪設置に関する兵部省の上申理由は、
「大阪の地は国土の中心に位置して全国に通ずる海陸路の便が良いため、変に対応するに易し」
となっている。

そして益次郎は死の直前、「西から足利尊氏の如きものが現れる」と言っていたと噂されている。
もしこれが本当なら、それは薩摩の反乱を予見したものと考えられる。

超人的な記憶力により蓄積された種々のデータを基に、自他の利益や感情思惑など不純物が混じらない、益次郎らしい緻密な分析から導き出した正確な将来像が、西南戦争だったのではないだろうか。

そう考えると、主要軍事施設の大阪整備の目的の一つは、その対応策だったとしても不自然ではない。
そうならば、益次郎が推進しようとしたこの事業が、明治新政府の最大の危機を救ったと言える。

あまね

大村益次郎は明治新政府の最大の隠れた功労者と言えるでしょう。

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