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石原莞爾は何をした人?満州事変を成功させた陸軍軍人の功績をわかりやすく

石原莞爾

近代の日本において、確実にその歴史のターニング・ポイントとなった満州事変。
それを企画・立案し成功させた一介の軍人が石原莞爾(いしわらかんじ)です。

石原莞爾が、政治ではなく、軍の実力による独走と言う悪手を結果的に定着させてしまいました。

この満州事変という武力行使の成功が、満州国の建国として政治的に後承認されました。

階級としては当時一介の大日本帝国陸軍の中佐に過ぎなかった石原莞爾をして、今日的にもその是非はともかく、非常に優れた頭脳を有した軍人であったとの一部の評価に繋がっています。

目次

石原莞爾の生涯

石原莞爾と弟の二郎
石原莞爾と弟の二郎

生まれ

石原莞爾は1889年1月に山形県にて警察官を務めていた父の元に生を受けました。

幼いときから成績優秀

あまね

幼少時から体は丈夫とは言えなかったものの、学業面では非常に秀でた頭脳を持ち合わせていたと言われています。

そのため石原莞爾は1902年に仙台陸軍幼年学校に入学、同級生は51名在籍していましたがトップの成績を治め、運動科目は苦手ながら大日本帝国陸軍軍人としての第一歩を踏み出しました。

そしてその3年後の1905年には陸軍中央幼年学校ヘと歩みを進め、ここでも優秀な成績を治めると同時に、大乗仏教の主要な経典である法華経に独学で触れました。

また上京し、日露戦争の立役者である大日本帝国陸軍の乃木希典や、大物政治家の大隈重信の知見を得て、その教えを請うたと伝えられています。

更にその2年後の1907年には石原莞爾は陸軍士官学校に進み、成績はここでも上位ではあったものの、後年に顕著となる傲岸不遜な言動の片鱗が見られるようになったと言われています。

陸軍士官学校を卒業後、歩兵第65連隊へ

少尉に任官された直後の石原莞爾と、弟の二郎
少尉に任官された直後の石原莞爾と弟の二郎

そして3年後の1910年、陸軍士官学校を卒業した石原莞爾は歩兵第65連隊において、少尉に任官、仕官候補生の指導役として厳しい指導を後進に行った事が記録されています。

この頃既に石原莞爾は、盛岡藩の元家老で明治政府では外交官となっていた南部次郎に触発され、その汎アジア主義の主義の思想に共鳴しており、1911年に中国で孫文が起こした辛亥革命の成功に報に触れ、その意義を賞賛する言動を配下の者らに力説したとされています。

汎アジア主義は、19世紀後半より顕著になっていた欧米諸国のアジアの植民地政策を排除する思想として隆盛を極めたもの。
当初は平和的な内容をも包括していたものの、日清・日露戦争後には日本が武力によってその中核を成すことを主たる目的とすることに変容したとも解釈されています。

当時の石原莞爾は、孫文の辛亥革命をイギリス当の植民地政策への反逆と捉え、新たな秩序がアジア全体に波及することを歓迎していたと考えられます。

陸軍大学校を卒業。幹部の王道を歩む

陸軍大学校30期卒業生一同。前列中央が石原莞爾
陸軍大学校30期卒業生一同。前列中央が石原莞爾

その後1905年に陸軍大学校に入校、3年後の1908年には同窓の第60期の卒業生60名の中で2番目と言う優秀な成績を修めて卒業、陸軍の幹部としての王道を進みました。

そして1927年には「現在及び将来に於ける日本の国防」と題する論考を著し、その中で中国北東部の満州と蒙古を日本が軍事力を行使して領有することで、当時の日本が抱えていた諸問題を解決するべきであるとの考えを示していました。

石原莞爾、満州へ

その翌年の1928年、石原莞爾は中佐に任官、関東軍作戦主任参謀となって実際に満洲の地に赴きました。

そして先の「現在及び将来に於ける日本の国防」や自身が唱えた「最終戦争論」を現実すべく、関東軍によって満州と蒙古を武力によって制圧する作戦計画を描きました。

石原莞爾、満州事変を完遂させる

そして3年後の1931年9月、実際に柳条湖事件を皮切りにそれを実行に移し、当時満州に20万名を超える兵力を有していた軍閥の張学良を向こうに回しながら、僅か1万名強の関東軍の兵力を以て、満州の軍事的な制圧を実現させました。

その後の満州は日本が直接支配を行う形ではなく、日本の傀儡国家として政治的には表向き独立国を装う形で満州国となりましたが、それは当時の欧米を中心とする国際秩序からは当然のように認められませんでした。

その翌年1932年には大佐に昇進、関東軍から外れ内地に戻され、1935年には 参謀本部作戦課長に就任、1936年2月に生起した2・26事件では陸軍内部の強硬派を取り締まる側に立ちました。

軍から放逐

この翌年1937年には 参謀本部第1部長心得、少将に就任するも日中戦争の不拡大を主張したことで関東軍参謀副長へと左遷。

そして1938年には関東軍参謀長であった東條英機中将と対立、完全に陸軍内での実権を喪失、翌1939年には中将となる。

1940年に満洲国から石原莞爾に贈られた勲一位柱国章の勲記
1940年に満洲国から石原莞爾に贈られた勲一位柱国章の勲記

その2年後の1941年3月に予備役とされ、太平洋戦争の開戦を待たずして軍から放逐されました。

1945年頃の石原莞爾
1945年頃の石原莞爾
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