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山本五十六の名言「やってみせ~」の紹介と国葬を受けた生涯を解説!

山本五十六

第二次世界大戦で連合艦隊司令長官として活躍したのが山本五十六です。

目次

山本五十六の名言「やってみせ~」

あまね

やってみせ
言って聞かせて
させてみて
ほめてやらねば
人は動かじ

上の格言はあまりにも有名ですよね。
人を使う会社でもこの山本五十六の教えを参考にしていたりします。

田舎から出てきた苦労人

山本五十六
山本五十六

さて、そんな山本五十六ですが、実は田舎から出てきた苦労人だということをご存知ですか?

今日は山本五十六の知られざる生い立ち、そして優れたリーダーとしての活躍をご紹介したいと思います。

学校の教科書では日本軍のリーダーとしての紹介程度に留まっていたりしますが、彼にまつわるエピソードは面白く学べる所もとても多いですよ✨

山本五十六出身地は長岡

山本五十六の生家
山本五十六の生家

山本五十六の生まれは新潟県の長岡市です。
長岡市は緑豊かな街で、市内には田んぼが沢山あり、冬には雪が降り積もる地域です。

山本五十六はそんな自然あふれる長岡市で高野貞吉という旧越後長岡藩士の六男として生まれました。

名前のウンチクですが父が56歳の時に生まれたことから五十六と名付けられたという経緯があります。

六男というだけでも今の日本では考えられないほど凄いですが、親がそんな高齢の時に生まれたというのも凄いですよね。
母親も45歳だったそうです。

猛勉強猛練習をして海軍へ

山本五十六(左)と生涯の友人である堀悌吉(右)
山本五十六(左)と生涯の友人である堀悌吉(右)。1910年代

山本五十六の公式プロフィールでは身長1m60cm、体重65kgとなっています。
子ども時代はもっと小さく小柄で痩せていたとされます。

そこで山本五十六は海軍に入るため体操を始めました。
最終的には鉄棒では大車輪をするほどまでに上達し、軽々と逆立ちもやってのけた逸話もあります。

また、お酒の席でもよく逆立ちをして周囲を驚かせていたとも言われ、現在の長岡市ではそれにちなんで「山本五十六逆立ち競争」というイベントも開催されています。

また学業においても努力の人で、中学を卒業して海兵学校を受験した際の成績は200人中の2位の成績でした。

そしてこのように山本五十六が努力した背景には父の願いと、甥の死があります。

山本五十六は「高野力」という甥がいたのですが、病気が原因で亡くなってしまいました。
その際、山本五十六は父から「力に代わって軍人になって欲しい」という願いを託されます。

その願いを実現するため猛勉強と猛訓練をして心身とも鍛えていったということですね。

山本五十六の性格は、人間味あふれ我慢強い

山本五十六
山本五十六

山本五十六の人柄に関するエピソードはいくつかありますが「寡黙」そして「我慢強い」ことが伺えるものが多いです。
ちなみに、山本五十六の血液型はO型。

寡黙さのエピソード

寡黙さについては、ミッドウェー海戦で将棋を指している途中に戦況報告があり「またやられたか」の一言だけ呟いたとされるエピソードが残っています。

あまり口数が多い人では無かったようですね。

山本五十六記念館
山本五十六記念館

また故郷の長岡市にある記念館には、山本五十六の肉声が記録された音声も残っています。

我慢強さのエピソード

旗艦長門に乗る山本五十六
戦艦長門に乗る山本五十六

我慢強さについては、鉛筆を食べたというエピソードの他に、不味い牡蠣を国益のためにバクバク食べたエピソード、ギャンブルにはめっぽう強かったという面白いエピソードがあります。

ギャンブルではここぞという時まで粘ることが大切だったりしますが、我慢強い山本五十六にかかればそんなこともお手の物なのでしょう。

ちなみに、長岡市は雪国であり大雪の中でも助け合って生きなければいけないため優しく「我慢強い」人が多いと言われます。

そんな長岡出身、O型というだけでも人柄は何となく想像できるのではないでしょうか?
その他、部下のためにお金を援助し、自分はパンと水だけで生活したエピソードもあります。

アメリカで学びいち早く航空機の優位性を見出す

山本五十六と宇垣纏(まとめ)
山本五十六(左)と宇垣纏(右)
戦艦長門に乗っている山本五十六
戦艦長門に乗っている山本五十六

山本五十六が偉人とされる背景には、優れたリーダーや軍人としての資質も関係しています。

山本五十六はアメリカに視察に行き、その国力の凄さを知り戦争には反対の立場でした。

よくメディアでは「暴れてご覧に入れる」という発言を引き合いに「山本五十六は無鉄砲に真珠湾攻撃をした」との内容で書かれることもありますがそれは違います。

アメリカをよく知っていた山本五十六は暴れてご覧に入れるという話しの最後に「日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」とも話していたからです。
現代の日本人もネットでアメリカを知ればあんな国には勝てないと思うこともありますが、山本五十六も同じだったのですね。

ただ時代が時代で日本は戦争に突き進んでいましたので、戦争をしたくはないけど「もし戦争するならば」となっていってしまった。
山本五十六の思いとは裏腹に物事が進んだことは悲運と言えます。

また研究を重ね航空戦力の優位性にいち早く気付いていたのも山本五十六で、それが証明されたのが真珠湾攻撃です。

時代を先駆けて航空戦力に注目し、日本は負けると既に見抜いていた。
この2点だけでも山本五十六の凄さは伝わるのではないでしょうか。

山本五十六、戦場にて散り国葬へ

山本五十六の遺影に頭を下げる東條英機
山本五十六の遺影に頭を下げる東條英機
山本五十六墓所
山本五十六墓所

そんな山本五十六は1943年(昭和18年)4月にブーゲンビル島にて敵機に攻撃されて亡くなりました。
そして5月に東京に遺体が届き、6月に国葬されています。

2022年9月に安倍晋三元首相が国葬という形になりましたが、山本五十六は日本で皇族・華族を除いてはじめて国葬された人物です。
それだけでも凄いですよね。

今までの常識を覆し、日本のために最後まで戦い戦場で散っていった山本五十六を思う人は今も昔も変わりません。

まとめ

山本五十六のエピソードと活躍についてお話しました。
山本五十六に対するイメージが代わった人もいるのではないでしょうか?

時代を見抜く力、人柄、努力と、さまざまな面で山本五十六は凄かったのです。

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